「般若天経」現代語訳

摩訶般若波羅蜜多天経 現代語訳

 

観自在菩薩はこの世の理(ことわり)を深く知ろうとした。

物事の一つ一つを注意深く観察し、深い瞑想を重ねた末、ついに智慧の完成を成した。

 

人間は、身体、感覚、意識、意思、認識の五大要素で構成されているが、身体にも心にも自分が存在している確証を特定することができなかった。

私と云う自分が実はこの世の何処にも見つからなかったのである。

「ああ、空だ。実体は何もないのだ。」

これで固定観念に囚われる必要がなくなった。

 

舎利子よ、この世に存在する全てのものは、自らが想像した固定観念の産物であった。

実体と決めつけていた存在は、実は一時的に現れたかりそめの姿に他ならない。

空に浮かぶ雲が刻々と変化するように、この世の全ての存在は常に姿形を変え続けている。

これは心の働きにも云えることだ。感覚、意識、意思、認識どれ一つとっても不変なものなど何一つとしてない。

空に浮かぶ雲を眺めていたつもりであったが、実は自分自身が雲であったということだ。

私の云うことが理解できるか。今すぐ理解できなくても構わない。

しかし、知ろうとする意欲だけは持ち続けて欲しい。

 

この世の存在全てが「空」の出来事であるならば、生きることや死ぬことすらこだわる必要がないのだ。

ましてや、綺麗だとか汚いだとか、小さな損得に一喜一憂しているようでは真理にはまだまだ遠い。

繰り返しになるが、この世にある全ての存在は固定観念の産物である。

眼に映る景色、耳に聞こえる音、匂いや味、身体や心に起こる現象に不変なものなど何一つない。

人の感覚で推し量れるものなどないと云うことだ。

 

しかし、人はこの世の理を見失う。往々に誤解を生み、無知に苦しむ。

人が老いて死ぬことを、この世の変化と捉えることができない。

老いが苦しみであるというのは錯覚である。

人が死を迎えることを悲しみと捉えることすら間違っているのだ。

頭でいくら考えようとも永遠に答えは見つからないだろう。

人の感性で理解するもの全てがこの世の真実ではないからである。

否定を繰り返し導き出した答えは、やはりこの世のどこを探しても実体という確かなものは「無い」ということだ。

 

人間という一個人の存在を超越した世界に真理はある。

凝り固まった概念が消えてなくなれば何も恐怖は生まれない。

自分の生命が自分の意思で「生きている」と認識するのではなく、自分の生命までもがこの世のごく一点にある現象であることを俯瞰できたならば覚りは近い。

覚りに宗教や思想は関係ない。もちろん年齢や性別も関係はない。

今も昔も、覚りを得た者は仏と成る。

この世の理を理解できる仏の智慧は誰にも平等に備わっている。

だからこの世の苦しみは、もはや苦しみではなく、よって逃げる必要もないのだ。

 

この経の末尾に古(いにしえ)の言葉添える。

言葉の意味は知らなくても良い。

何故ならば、言葉の持つ意味は人の頭で導き出される実体のない幻想で、この世の真理ではないのだから、ただ何も考えず唱えれば良い。

掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶

 

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